即金4000万円のリストラ離婚後の転職
リストラ離婚で即金4000万円渡し、仕事と家庭を同時に失った管理人
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管理人 プロフィール - 父のこと

管理人 プロフィール - 父のこと

管理人のプロフィールを重厚にしていきたいと思っています。私としては、将来的に、4人の子供達(前妻の子供が二人、今の妻の子供が二人)に読んでもらいたいので、書いている次第です。一般の読者には関係のないことなので、気にしないでください^^

 

父の生い立ち

父親は、月足らずの逆子で生まれてきて、直後は仮死状態だったと本人から聞きました。氷水とお湯に交互につけて、やっと「おぎゃー」と泣いたそうです。私の祖父母の間にできた長男が私の父親になります。私の祖母(父の母親)は、裕福な家のお嬢さんでだったとのことです。確か商売をしていて成功したのだそうです。そこに使用人として働いていたのが、祖父(父の父親)だったとのことです。まだ、大正時代で恋愛結婚が珍しい時だったのにもかかわらず、なんでも恋に落ちて二人で駆け落ちしたそうです。自分の系譜にそんな劇的な人生を歩んでいる人がいるというのが驚きです。

その駆け落ちの時にできた子が私の父だそうです。だから、祖父と父の年齢差は、20歳程しか離れていません祖母とは18歳しか離れていないそうです。父親の弟は、父親から10歳以上年下になります。父が生まれてからというより、駆け落ちの結婚を許してもらうために、父を生んだのかもしれないなと、個人的にはふと思ったりしています。もしそうだとしたら、月足らずの逆子で生まれた病弱な父が不憫で仕方ありません。

駆け落ちで生まれた若い両親の子供だったこともあり、私の父は両親からは優しくしてもらえなかったと言ってたのが思い出されます。ただ、父が工業高校でなく、商業高校に進みたかったと何度か言っていたのを、祖父は金がないからという理由で、父にそれを許さなかったそうです。また、父は大学に行きたかったみたいででした。何かの折には、そのことを悔しそうに話していたのが今も思い出されます。そのような環境でも、叔父(父の弟)は、商船学校に行き、商船の一等機関士として活躍されていました。父も叔父も今はもう亡くなっています。

 

戦時中の父

父は病弱で体が弱かったこともあり、戦時中は補給部隊に二等兵として配属されたそうです。補給船に乗って任務にあたっていた時に、魚雷を受けて、その補給船が沈没したそうです。奇跡的に沈没後、2日ぐらいで救助してもらい、父は命からがら日本に帰れたそうです。

沈没して海に漂っている時

― このまま死んでいくんだろうなと絶望して、月夜の海で、月を見ながら、涙がボロボロと流れたそうです。

― 木片のようなものに捕まって、とにかく体力を温存したそうです。

ー 長時間海水に浸かっていると、皮膚がふやけて、魚についばまれるようになって危ないんだと言っていたことが印象に残っています。だから絶対に、靴をつけて、服を着たままでいないといけないと私に語っていました。

ー 本当に死ぬと思ったので、今の人生は神様から与えられたオマケの人生だと語っていたのが印象的でした。

父は、戦争なんて二度とやるもんじゃないと実体験として語っていたのが印象的でした。軍隊の生活は、無茶苦茶だったと、形相を変えて私に語ってくれました。

1)「上官の命令は、朕の命令なり」と言って、理不尽なことを強要されたり、鉄拳制裁と言って暴力を振るわれたり、とんでもない組織が軍隊だった。

2)戦争中は、本当に偉そうにしていた憲兵が、戦争に負けたら、知らん顔をして自分たちも被害者のようなふりをしていた。

3)罪のない真面目な人間が、バタバタと殺されていった。

父の話を聞いていると、戦争というのは、どんな犯罪よりもひどい犯罪で、正に人間の尊厳が根絶されるような事象であることが、父の話から直接感じることができました。

こんな時代を本当に生きていた父は、凄い体験をしていたのだと心から驚愕します。それに比べて私は非常に恵まれた時代を生きているのだと思います。感謝です!

 

本当に素晴らしい父親だった

駆け落ちの両親の間に、結婚を認めてもらう手段として、病弱で生まれて、あまり両親にも優しくしてもらえず、何かあったら父親から殴られていたというつらい幼少期を過ごしていたようです。更に青春時代は戦争の真っただ中で、非常に強烈な体験をして、身も心も荒んでいても不思議ではなかったです。父が母と結婚したのは40歳で、私が生まれたのは父が42歳の時でした。当時としては、かなり晩婚だったと思います。その原因は、父が若い頃は結婚して家庭を築けるほどの経済力がなかった為です。

私には本当に良い父親でした。当時は親が子供に、しつけと称して、暴力を振ることが日常茶飯事でした。しかし、私の父は、私に対して一度も暴力を振るったことはありませんでした。厄年(42歳)でやっと生まれてきた男の子だったので、非常に大切にされていて、どちらかと言えば、自由奔放に育てられた思います。私は父親っ子でした。若い父を知っている人は、本当に驚いていたそうです。不幸な幼少期と戦争でのつらい体験で、若い頃は結構精神的にも荒んでいたようです。

まず、「結婚するとは思わなかった。」

子供ができても、「祖父に受けていたひどい仕打ちを、子供にすることはするとしても、かわいがるなんて想像もできないかった。」だそうです。

私が怒った時も、いつも父親なりに冷静な対応をしてくれていたと思います。私が大学生の時に、63歳の若さで脳溢血で亡くなりました。亡くなる前は、別人のように怒りっぽくなっていましたが、これも脳溢血に至る兆候だったのかもしれません。家族思いの心優しい父親で大好きでした。

 

同じぐらい素晴らしい父親になりたい

息子は、無意識に父親の背中を追いかけるというのは事実かもしれませんが、私も自分の父親のようになりたいと思っています。

今は昔のように躾と称して、自分の子供にも暴力を振るうことは許されなくなっています。なので、当たり前なのかもしれませんが、私も父に見習って、自分の子供たちに手を出したことは一度もありません。あと、旅行好きなので、子供達と一緒に、できるだけ色々な所に旅行に行くようにしています。これは、子供たちのためというよりは、自分のためであるのかもしれません。ただ、親が家族と一緒に人生を楽しむ姿を見せることは、子供達にも良い影響を与えると信じています。

子供達の前で無理に良いお父さんを演じるつもりはありませんし、演じてもすぐに化けの皮が剥がれてしまうでしょう。自然体で子供には接しています。ただ、子供に残せる一番のものとして、教育だと思っていますので、小さい頃から、塾には通わせ、本人が好みそうな習い事はさせています。水泳は、習い事の典型です。コロナ渦の影響で、今は水泳教室には通わせていませんが、機会があればまた復活させたいと持っています。

本人が望んでいますので、中学受験はさせたいと思っています。東京では当たり前のようですが、私の住んでいる所では、公立の中学校に行くことがほとんどなので、親としては、頑張ってあ子供たちに良い教育をつけてあげたいと思っています。

 

良い父親がいたおかげで、もちろん母親もそうですが、私は幸せな幼少期を送ることができました。これと同じ経験は、再婚して生まれた今の子供達には、是非してあげようと思っております。

心残りは、離婚して会えなくなった子供達です。誕生日とクリスマスとお正月には必ずプレゼントを贈るようにしていますが、もう10年以上も会っておりません。元嫁が離婚時の協定に反して、子供たちに私を会わせないようにしたためです。ただ、元嫁を責めても仕方ありませんので、離婚して会えなくなった子供達には良い父親ではなかったと感じています。というか、10年以上も会えていないので、父親としての役割は果たしていないのが本当のところでしょう。私の父親が生きていたら、このことを真剣に相談して、何らかの対策を取っていたかもしれません。それほど、頼りになる父親でした。

 

今でも父親は私の心の中に生きていて、良い記憶だけが浄化されて、そればかりが思い出されます。

 

 

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